このコラムは日経ビジネスオンライン「鈴木友也の米国スポーツビジネス最前線」にて掲載されたものです
2008年8月8日から開幕する北京オリンピックまであと3カ月を切りました。そして、4年に1度の祭典であるオリンピックは、スポーツ選手にとってだけでなく、中国市場を狙う企業にとっても、世紀の大舞台となります。
米アパレル大手のナイキは、2004年のアテネ五輪の110メートルハードルで金メダルを獲得した劉翔(りゅう・しょう)選手を起用した巨大なポスターを中国の街中に掲示しています。劉翔選手は、「アジアの昇り竜」と呼ばれる中国の人気選手で、北京オリンピックでも金メダルが期待されています。
もし、劉翔選手が期待通りの結果を残せば、中国国民は熱狂するに違いないでしょう。その時ナイキは、中国国民に大きなアピールをすることができるはずです。世界のスポーツ用品ブランドがしのぎを削る中国で、一気に認知度を高める可能性を秘めているわけです。
赤色になるペプシコ
米飲料大手のペプシコも、オリンピックに合わせて消費者から缶のパッケージデザインを募集するオンラインコンテストを実施し、中国全土から1億6000万件にも上る応募を得ました。その中から最優秀賞に輝いたデザインは、店頭に並ぶことになります。
そこには、中国チームへの応援メッセージも記載されるのです。さらには、青いデザインで有名なペプシコーラのパッケージが、この時ばかりは「中国に敬意を払う」ために、コカ・コーラと似た赤を基調としたデザインになるのです。
このオリンピック期間限定パッケージのCMは、YouTubeでも見ることができます。ちなみに、2006年の中国における炭酸飲料市場は、米コカ・コーラが51%を占めており、ペプシコは30%と後塵を拝しています。
協賛企業でも公式スポンサーでもない
こうした広告を目にしたら、多くの人が、ナイキやペプシコをオリンピックの協賛企業だと思うでしょう。ところが、ナイキもペプシコも北京オリンピックの公式スポンサーではありません。実は、アパレルのオフィシャルスポンサーは独アディダスで、炭酸飲料はコカ・コーラなのです。
北京オリンピックの国際スポンサーである「ワールドワイド・オリンピック・パートナー」になるためには1億ドル(約100億円)の協賛費が必要です。また、中国国内だけの地域スポンサー「北京2008パートナー」になるためにも5000万ドル(約50億円)がかかります。それなのに、ナイキやペプシコはこうしたカネを1銭も払っていないのです。
ナイキやペプシコのケースのように、あたかもイベントの公式スポンサーのような“錯覚”を起こさせるゲリラ的マーケティング手法を、「アンブッシュマーケティング」と呼びます。ちなみに、「アンブッシュ(Ambush)」とは、「待ち伏せする」「奇襲する」といった意味を持つ単語で、まさに「ゲリラ戦」を展開することを指しています。
2種類ある手法
米国で「アンブッシュマーケティング」というと、一般的には2つの手法になります。特定のライバル企業を狙い撃ちにするかどうか、という違いはありますが、いずれの手法も大金を払ったオフィシャルスポンサーの広告効果を弱めることを目論んでいます。
その1つは、「オフィシャルスポンサーとなったライバル企業に対して、そのスポンサー料の対価として得られるはずの効果を弱めるための活動」であり、もう1つは、「管轄団体からの許可なくスポーツやイベントとの関連性をほのめかすことで、ブランド価値を流用する活動」です。
ペプシコは、コカ・コーラを狙い撃ちにしていると見られるので前者に当てはまります。ナイキは、特定のライバル企業を念頭に置いていないと考えられることから後者に分類されるでしょう。
こうしたアンブッシュマーケティングは、公正な競争を是とする現代社会で、異端の経営手法に見えます。なぜ、そうした事態が、先進国でまかり通るのでしょうか?
1社独占の慣行に風穴を開ける
その背景には、スポーツ組織が重視しているスポンサーシップ制度が、経営学上は悪と見られる「独占」という思想に基づいていることがあります。世界最先端のスポーツ組織では、スポンサーシップは、「1業種1社」に限って認められます。つまり、「1社独占」の世界を形成するわけです。
しかし、米国をはじめとして、先進国では市場独占など許されるはずもありません。だからこそ、ペプシコやナイキといった先端企業が、「そんな世界は間違っている」と言わんばかりにゲリラ的手法に打って出るのでしょう。
スポーツ界を潤すスポンサーシップ制度の発展と、独占問題は切っても切り離せない関係にあります。アンブッシュマーケティングの歴史は、スポーツスポンサーシップ制度の発展と表裏一体を成しています。まずは、その歴史的背景について、概観してみましょう。
赤字イベント「オリンピック」を変えた手法が基点
今となっては想像もつかない話かもしれませんが、一昔前までオリンピックは開催国に大きな金銭的負担を強いる“お荷物”でした。例えば、1976年のモントリオール・オリンピックでは、カナダは10億ドル(約1000億円)を超える赤字を背負いました。
その穴埋めに、カナダ国民は大会終了後10年にわたって、高い税金を払い続けたのです。80年のレークプラシッド冬季オリンピックでは、運営費が回収できず、オリンピック組織委員会が破産するという前代未聞の事態に陥りました。
オリンピックが国を滅ぼす――。
それが定説になりつつあった84年、ロサンゼルス・オリンピックがすべてを覆しました。この大会は、米国、カリフォルニア州、ロサンゼルス市が、それぞれの税金を1セントも使うことなく、大会を成功裏に終えたのです。
奇跡を起こしたのは、ピーター・ユベロス氏でした。実業家だった彼は、自ら起業した旅行会社を、業界2位に育てた手腕を評価され、ロス五輪の大会組織委員長に抜擢されました。このユベロス氏こそ、スポーツ界に「独占」の概念を持ち込んだのです。
ユベロス氏は、産業分野ごとにスポンサーシップを1社に独占的に与える「オフィシャルスポンサーシップ制度」を取り入れました。そして、スポンサーシップ料を最低400万ドル(約4億円)に引き上げたのです。テレビ放映権も1社だけに与えました。米国では競争入札の結果、ABCが2億5500万ドル(約255億円)という巨額の放映権料で契約を勝ち得ました。
また、公式マスコット「イーグルサム」を商標化し、商品化の権利を様々な企業に売り歩いたのです。こうして、ユベロス氏は巨額赤字イベントを、2億2500万ドル(約225億円)の黒字をもたらす集金マシンに変えたのです。余談ですが、ユベロス氏はロス五輪終了後、MLB(米大リーグ)のコミッショナーに就任し、様々な経営改革を実施することになります。
ソウル五輪で起きたVISA・アメックス戦争
「独占」の概念を持ったスポンサーシップ制度の誕生により、多くの企業が投資対効果の高いマーケティング手法だと確信しました。それ以降、企業はこぞってスポンサーシップに巨費を投じるようになります。実際、84年以降全世界での企業によるスポンサーシップ支出は右肩上がりで増えています。
しかし、自由競争を基本とするビジネスの世界に「独占」という背反する概念を導入したことが、奇しくもアンブッシュマーケティング登場の素地を作ることになるのです。自由競争を原則とするビジネス界において、独占が実現できるのは、大会主催者が保有・管理している権利コンテンツの世界だけでしょう。技術の進歩や、新種のマーケティング活動が生まれた結果、主催者が管理できない盲点を見つけた企業が、そこでアンブッシュマーケティングを展開するようになったのです。
こうした経緯から、オフィシャルスポンサーシップ制度確立とほぼ同時に、アンブッシュマーケティング活動が始まりました。中でも、有名なのは、米ビザ・インターナショナル(VISA)と米アメリカン・エキスプレスによる「クレジットカード戦争」です。両社によるカード戦争が勃発する引き金となったのが、88年のソウル五輪に際して公式スポンサーとなったVISAがオンエアした比較CMでした。問題となったCMの最後には、次のようなメッセージが表示されました。
「オリンピックではアメリカン・エキスプレスは使用できません」
The Olympics don’t take American Express
オリンピック公式スポンサーの特権を前面に出したCMと言えますが、事実は少し違いました。オリンピックのチケットとグッズ販売店では、VISAカードしか使えませんが、開催地の多くのレストランでは、アメックスのカードも利用できました。そこで、アメックスが反撃に出ます。「VISAのCMは消費者に誤解を招く恐れがある」として92年のアルベールビル冬季オリンピックで、次のようなCMをオンエアしたのです。
「試合を見るのにVISAはいらない!」
If you want to enjoy the fun and games, you don’t need a VISA
CMを見た人は、「VISA」はカードのことだと思うでしょう。ところが、アメックスは、「アルベールビルへ行くのにビザ(査証)がいらないという意味である」という言い訳ができるのです。まさに、巧妙なアンブッシュCMでした。
公式スポンサーでなければ傍観するしかない、は?
勢いに乗ったアメックスは、92年のバルセロナ・オリンピックでも、IOC(国際オリンピック委員会)が本部を置いているホテルのカードキーの裏側の広告枠を買い取りました。そこを同社のカードのデザインにしたのです。あたかもオリンピックの公認クレジットカードのような印象を与えました。
パフォーマンス・リサーチの調査によると、92年のオリンピックが終了した時点で、55%が正しく「VISAがオリンピックの公認クレジットカード」と答えているものの、なんと30%が「アメリカン・エキスプレスがオリンピックの公認クレジットカード」と答えていました。
この「クレジットカード戦争」について、当時の関係者は次のようにコメントしています。
「アメリカン・エキスプレスによるCMは、『オリンピック』という言葉は用いていないものの、まるで自分たちがオリンピックのスポンサーであるかのように見せて、消費者に混乱をもたらしている。彼らが行っていることは本質的には窃盗と変わらない」(VISA USA代表取締役副社長(当時)=ジョン・ベネット氏、出所:マネジメント・レビュー1993年3月号)
「『公式スポンサーになれなかった企業は、イベントを傍観するしかない』という弱気な考え方がある。だが、イベントをビジネスチャンスとして活用することは権利であるばかりでなく、株主に対する責務でもある。アンブッシュマーケティングを『倫理的にいかがなものか』と非難することは、いい加減なマーケターの戯言でしかない」(アメリカン・エキスプレス ワールドワイドマーケティング局局長(当時)=ジェリー・ウェルシュ氏、 出所:スローン・マネジメント・レビュー1996年秋号」
一体、アンブッシュマーケティングとは「悪」なのでしょうか。また、アンブッシャーの活動を防止することは可能なのでしょうか。こうした点については、次号で解説することにします。
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