このコラムは日経ビジネスオンライン「鈴木友也の米国スポーツビジネス最前線」にて掲載されたものです
8月18日、米ノースカロライナ州シャーロットのダグラス国際空港に、日本から来た10歳から17歳の6人の子供たちが降り立ちました。彼らは、米メジャーリーグで日本人2位の通算50勝を挙げている大家友和投手が毎年開催しているチャリティー学習体験ツアーに招待された子供たちです(日本人1位は、今シーズンで引退した野茂英雄投手の123勝)。
現在マイナーで登板しながらメジャー再昇格を目指している大家投手は、メジャーリーガーになって以来毎年このツアーを続けており、参加者は合計90人にも上ります。応募者は、「私の夢」をテーマにした作文を基に、面接で最終選考されるのですが、その多くは親元から離れて児童福祉施設で暮らしている子供たちです。
約1週間のツアーでは、現地の子供たちと交流したり、米国で夢に向かって活動している日本人の話を聞いたりします。もちろん、大家投手と接する機会も多く、個別面談まで体験できるのです。
このツアーの開催趣旨は、子供たちに「志を高く持ち、夢を追い続けること」の大切さに気づいてもらうこと。これは、エリートとは言えぬ“雑草街道”を歩みながらも、「メジャーリーガー」という夢を持ち続けた大家友和という野球選手の等身大の生きざまをそのまま投影していると言えるかもしれません。
日本球界をリストラされ、単身米国に
大家友和、32歳。1976年、京都で未熟児として生まれた大家投手は、幼少期は体が弱く、病気と格闘する日々を送ります。8歳の時に両親が離婚。以後、男ばかりの3人兄弟(大家投手は2男)は母親1人の手で育てられますが、家計はお世辞にも楽と言えず、この経験が人生を決定づけることになります。
運動音痴でスポーツ嫌いだった大家投手が、当時大流行した野球漫画「ドカベン」に触発されて急に「野球をやりたい」と言い出したのは小学校3年生の時でした。大家投手はこの時、多くの野球少年がそうであるようにプロ選手になることを夢見たのですが、その理由は他の少年と違ったものでした。
「プロになって家族の暮らしを楽にしたい」
家計を助けたい一心から小学校・中学校と野球を続けた大家投手は、創設間もない京都成章高校に進学します。学費は兄・健一さんからの援助でした。健一さんは、弟を私学に通わせるために、稼ぎの良い職場を求めて転職しました。学費補助に際し、健一さんが出した条件があります。
「高校野球の集大成として、プロ野球の入団テストを受けること」
惜しくも甲子園出場は逃すものの、大家投手は兄との約束を果たし、1994年にドラフト3位で横浜ベイスターズに入団します。1994年4月29日、1軍デビュー2戦目にして早くも初勝利を手にします。
しかし、日本球界で上げた勝ち星は、この1勝だけでした。5年間在籍して、1勝2敗。これが、大家投手の日本球界での公式記録です。小さい頃からの夢であったメジャーリーガーを目指して大家投手が海を渡ったのは1999年初春のことでした。
日本で1勝の男が、日本人最高年俸投手に
今でこそ、日本で活躍した選手が海を渡りメジャーに挑戦することは珍しい光景ではなくなりました。しかし、1999年といえばイチロー選手も松井秀喜選手もまだ日本におり、当時メジャー入りしていたのは野茂投手や長谷川投手、伊良部投手など、日本で実績を残した一流投手に限られていました。常識で考えれば、日本でたった1勝しか上げられなかった投手がメジャーリーグに挑戦することは「無謀」だったのかもしれません。
実際、彼が「メジャーを目指して米国に行く」と言った時、周りの反応は冷ややかなものだったそうです。しかし、彼はそれを意に介しませんでした。
だからでしょう。学習体験ツアーの開催趣旨は、夢に向かって愚直に突き進む「独立心」や「強い信念」を子供たちと共有することにほかなりません。私は、2001年の第1回ツアーから企画・運営に携わっていますが、趣旨は今も変わりません。第1回ツアーの企画書には、こう書かれています。
これからの時代を生き抜くために
今まさに時代の変革期にあり、人々の価値観が大きく変わろうとしています。これからの時代を生き抜くためには新しい価値観の創造が求められています。(中略)私どもの考える「新しい価値観」とは、今まで是とされていた没個性的・画一的価値観から抜け出し、ひとりひとりの人間が個性を発揮しながら活き活きとした社会を創り出していくことです。
他人との比較の中で幸せを定義する生き方は終わりを告げつつあります。
「夢は変わってもいい。別の夢を追い求めればいい」「自分が変われば相手が変わり、世界が変わる」
こうしたツアーの骨格をなすメッセージは、大家投手が身をもって体験したことでもあります。海を渡っても、決して順風満帆な野球人生が待っていたわけではありません。
英語が分からないのに、通訳もいない…。ボストン・レッドソックスのマイナーで、文字通り裸一貫からキャリアを再スタートさせます。マイナーでは、破竹の15連勝を記録し、完全試合も達成しました。日本人9人目のメジャーリーガーとなったのは1999年7月のこと。ところが、その後もマイナーとの間を行ったり来たりします。いくら調子が良くても契約で守られている大物やベテラン選手が優先される――。契約社会の現実に直面し、辛酸をなめた時期でした。
新天地モントリオール・エクスポズではローテーションの一角を任せられ、2年連続で2ケタ勝利を手にしました。ところが、油が乗りかかってきた「これから」という時期に、利き腕に打球を受け、上腕部の骨が3カ所砕けるという悲運の事故も経験しました。「今季絶望」と報じられる中、シーズン中に奇跡のカムバックを果たしたのは、彼の精神力の強さを物語るエピソードの1つです。
その後、ミルウォーキー・ブリュワーズに移籍し、自由に移籍交渉ができるフリーエージェント権を獲得します。2006年には、日米を通じて日本人最高年俸投手にもなっています。翌年、プレーオフへの出場を期待してトロント・ブルージェイズに移籍しますが、シーズン途中に自由契約、つまり解雇されることになります。
その後セントルイス・カージナルスとシアトル・マリナーズのマイナーを転々としますが、シーズン終盤は渡米以来、初めて自由契約(いわゆる「無職」の状態)の身で過ごしました。さらなる雌伏の時を経て、今年からシカゴ・ホワイトソックスとマイナー契約し、メジャー復帰を目指しています。
苦境の時だからこそ、子供たちに語り続ける
大家投手の野球人生が、彼が主催する学習体験ツアーの背景にあるわけです。実際、ツアーに参加する子供たちには、渡米前に大家投手に関する課題図書が与えられ、作文などの宿題も出されます。生い立ちや、渡米前後の軌跡を深く知ってもらうことを必須条件としています。
大家投手の「基礎知識」を詰め込んだうえで、いよいよ米国の地を踏むことになるわけです。もちろん、ツアー中のイベントは、彼の生きざまを深く理解する内容が続きます。今年のツアーでも、様々な体験が子供たちを待っていました。
「夢教室」というプログラムでは、ツアーの帯同スタッフが、自分の職業経験を分かりやすく解説します。今年は大家投手のグローブを担当しているゼット(ZETT)の桐畑純一さんらの講義がありました。桐畑さんは大学時代までプロ野球選手を目指していました。しかし、怪我によって夢を断念。それでも物心両面から桐畑さんを支え続けたZETTに心を打たれて、同社に就職したのです。
こうした桐畑さんの「人生物語」を聞いた後、子供たちに未完成のグローブが配られます。そして、最後の1本のヒモを通してグローブを仕上げる「グローブ作成教室」が開催されました。モノ作りのプロセスを体験することによって、職人さんがいかに丹精込めてグローブを作っているかを知り、物を大切にする心と感謝する心を学ぶわけです。
また、米国の中学校の授業も体験しました。参加したのは、体育と国語の授業。体育の授業では、日米混合チームでバスケットボールとフットサルの試合を楽しみました。
国語の授業では、読書感想文について真剣に討論する様子を見学し、さらに校長先生による英語の挨拶の特別授業も受講しました。
米国人と初めて接した子供たちは言葉が出てこなくて、スタッフに目で助けを求めてきます。でも、スタッフはあえて子供たちへのサポートを控えるようにしました。子供たちが勇気を持って自分から相手にコミュニケーションを取るように促すためです。
大概、こうした状況では女の子の方が積極的に話しかける場合が多いのですが、身振り手振りを交えたコミュニケーションを取ると、人種や言葉の壁を乗り越えてあっという間に仲良くなってしまいます。最初は泣きそうになっていた子供たちも、最後は別れの寂しさから涙をこぼしそうになっていました。
ツアーの最大の山場は、大家投手との個別面談です。子供たちは30分間、大家投手と2人で過ごす時間が与えられます。もちろん、何を聞いても相談しても構いません。この時間は、子供たちが心の殻を破り、大きく成長する機会になることも少なくありません。子供の言葉に、大家投手も正面から向き合うのです。
この面談を機に、誰にも明かしていなかった学校でのいじめを告白した子供や、恥ずかしくて公言できなかった「芸能人になりたい」という夢を話す子供もいました。事情があって野球部を退部させられた高校生が、帰国後にもう一度野球にチャレンジしたというエピソードもあります。
「夢を持て」「あきらめるな」というメッセージは、時として陳腐に聞こえます。しかし、運動音痴だった子供時代から苦労と努力を続けて、日本人投手の頂点に立った大家投手であればこそ、子供たちも心を開き、彼の声に耳を傾けるのでしょう。また、大家投手も、そうした自分の影響力を認識し、グラウンドの上だけでなく、こうした取り組みを「自分に課された役割」として取り組んでいるわけです。
大家投手が優れているのは、メジャーでプレーしていた好調な時期だけでなく、骨折していた時も、自由契約という「失業時代」もこのツアーを実施していることではないでしょうか。特に、ユニフォームを着ていなかった昨年は、スタッフの中からも「野球に専念してもらうためにツアーを中止した方がいいのではないか」という声が上がりました。それでも本人は、「こうした状況だからこそ実施することに意味がある」と主張したのです
そんな大家投手がメジャー復帰を目指して黙々とマウンドに登り、打者に対峙する姿は、子供たちに言葉以上のメッセージを伝えるに違いありません。
スポーツ選手の社会貢献を支える仕組み
今年で8回目を迎えたツアーですが、実施期間が約1週間、参加者は10人前後と決して大きなイベントではありません。それでも、毎年のように開催地や参加者に合わせてプログラムを変えているので、手間暇がかかります。スポーツを通じた社会貢献は片手間ではできません。
ツアーを主催しているのは、大家投手が設立した特定非営利法人(NPO法人)の「Field of Dreams(FOD)」です。ツアーの費用は協賛金で賄われているため、FODのスタッフはツアー実施の半年ほど前から、スポンサー集めに走り回ることになります。
米国では、ロックフェラー財団の全面的なバックアップを受けて、大家投手からの支援金が同財団を通じてFODに寄付される仕組みを構築しています。このようにツアーの裏側には、日米における支援体制が欠かせません。実は、米国ではスポーツリーグやチーム、選手が実施する社会貢献活動をサポートする仕組みや組織が整っています。スポーツ選手は、社会に対する発信力や影響力が強いので、それをうまく発揮できるように考えられているわけです。
日本でも、多くのスポーツ選手が活躍しており、子供たちの憧れの存在になっていると思います。しかし、日本でスポーツ選手の影響力を、うまく社会貢献につなげられる仕組みがあると言えるのでしょうか。
次回のコラムでは、米国における、スポーツを通じた社会貢献活動を支える仕組みについて見ていこうと思います。
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