このコラムは日経ビジネスオンライン「鈴木友也の米国スポーツビジネス最前線」にて掲載されたものです
私が米国に拠点を置きながら日本のスポーツ関連組織のお客様に対してコンサルテーションをさせていただくようになって10年以上が経ちました。この間、お客様の様々な悩みを共有させていただきながら、その解決のヒントとなるような優良事例(ベストプラクティス)を米国で模索し、そのエッセンスを収集・体系化してお客様にご提供するというプロセスを繰り返してきました。
お客様の抱える悩みは多岐にわたります。チケットやスポンサーシップ販売といった事業系領域から、国際戦略、広報、社会貢献活動。最近では昨年3月11日に発生した東日本大震災への対応や、ソーシャルメディアを活用したファン育成など様々です。
情報収集に当たっては、米国スポーツ界の球団・リーグ経営者やプロジェクト担当者と会ってお話をうかがうことも多く、この10年間で面会した方々は恐らく1000人を超えると思います。
日米スポーツビジネスの本質的な違い
その中で、日米のスポーツビジネス環境の違いを生み出している本質的な違いが大きく2つあるように感じています。
1つは、球団経営のあり方の違いです。球団保有目的の違い(誰のために、何のために保有するのか)と言い換えてもいいかもしれません。この点については、以前このコラムでも「ベイスターズ買収劇で露呈した日本プロ野球界の“伝統”~球団保有の在り方に透けて見える日米スポーツビジネスの違い」などで触れました。
米国スポーツビジネス界では、日夜新たなアイデアが生み出され、共有され、進化しています。これは営利目的の球団経営が徹底されているからです。球団が成長エンジンとなって地元のファンや協賛企業、自治体などのステークホルダー(利害関係者)に利益をもたらし、共に成長していくことがDNAとして組織に刻み込まれています。
もう1つの大きな違いは、市場特性の違いです。スポーツファンの気質の違いと言ってもいいかもしれません。もっと大きくとらえるなら、社会の違いです。そして、誤解を恐れずに結論を先に言えば、民主主義の成熟度の違い。言い換えるなら、社会の中での「自由」というものに対する向き合い方の違いがこの差を生み出しているように思われます。
今回のコラムでは、この点についての私なりの見方をお伝えしたいと思います。
ファンはなぜスポーツ観戦するのでしょうか?逆に言うと、どうしたらスポーツを観戦してもらえるようになるのでしょうか?
日本のスポーツ関係者の方々と話をしているとよくこの話題になるのですが、「もっとこのスポーツの面白さを知ってもらう機会を作り出す必要がある」「競技人口を増やすために普及活動に力を入れる必要がある」という意見が出てきます。言い換えれば、競技の面白さにさえ気づいてもらえればお客さんは来るという発想です。
米国でのスポーツ観戦に親しんでいる私から見ると、こうした「競技軸」で集客を図る発想は正論でもちろん重要ですが、それだけでは少し危険に感じます。なぜなら、米国では「競技が好きだから」「競技の経験者だから」という理由でスポーツ観戦している人は、むしろ少数派のように見えるからです。
例えば、米国で最も集客力があり、1試合当たり約6万7000人の観客を動員するプロフットボールリーグ(NFL)のファンの41.3%は女性です。この値は4大メジャースポーツでは最も高いのですが、女性がアメリカンフットボールをプレーする機会はあまりないでしょう。
私も大学でアメフトをしていたので分かりますが、プレー経験のない人がその高い戦術性を理解するのは少し難しいような気もします。にもかかわらず、なぜプレー経験のない人でもスポーツを観戦するのでしょうか?
表:4大メジャースポーツファンの男女比
NFL | MLB | NBA | NHL | |
---|---|---|---|---|
男性ファン | 58.7% | 58.8% | 60.2% | 63.6% |
女性ファン | 41.3% | 41.2% | 39.8% | 36.4% |
出所:Scarborough Sports Marketing(2010年6月調べ)
スポーツが好きで観戦するのは少数派?
米国には「代理応援」という考え方があります。ファンは「チームの存在や活躍」と「自分」を重ね合わせて応援するという考え方です。選手が自分の代理としてプレーしている。そういうイメージです。
「代理応援」が成立する前提として、ファンはチームに対して「人ごとと思えないような何か」を感じていることが必要になります。つまり、「チームの存在が自分のアイデンティティーの一部」ということです。
もちろん、チームの活躍や過去の輝かしい実績が地元の人々の心に深く根差し、こうした「競技軸」がアイデンティティーの一部になるということもあり得ると思います。
ニューヨーク・ヤンキースなどはそうした事例の1つかもしれません。常勝ヤンキースは毎年優勝争いに加わりますし、過去27回のワールドシリーズ制覇という比類なき栄光は深くファンの心に刻まれています。しかし、どのチームもヤンキースになれるわけではありません。むしろ、「競技軸」でファンを呼べるチームは少数派でしょう。
米国では、多くの球団は「地域軸」で勝負しています。いわゆる地域密着経営です。米国のプロスポーツ球団が社会貢献活動を行うのは、この「地域軸」からファンを開拓・育成し、ファンとの間にチームの勝ち負けを超えた感情的な絆を作るためにほかなりません。「チームと都市のパワーゲーム(下)~移転と地域密着を両立させる戦略的取り組み」でも書きましたが、米国では地域密着は目的ではなく、戦略的な手段なのです。
米国のプロスポーツ球団による社会貢献活動は枚挙に暇がありませんが、例えばヤンキース傘下のダブルA球団トレントン・サンダーは全ホームゲームで犬の里親探しを行っています。毎試合「今日のワンコ(A dog of the day)」としてシェルターにいる犬の引き取り手を探すのです。
このプログラムを通じて愛犬を手にしたファンは、球団との間に特別な絆を感じるはずです。球団がなければ愛犬と知り合うきっかけがなかったわけですから。これは一例ですが、こうした「競技軸」以外からの活動を根気よく積み重ねることで、「球団の存在は私の人生の一部」と感じてもらえるファンを増やすのです。
ワールドシリーズを見ないと米国人になれない?
そもそも日本には「スポーツが私の人生の一部」「球団がない自分の人生なんて想像できない」と言い切れる人がまだまだ少ないのではないかと思います。例えば、「あなたという人間のアイデンティティーを作り上げている重要な要素をキーワードで5つ挙げてください」と言われたら、あなたは何と答えますか?そこに地元スポーツ球団の名前は入っていますか?
ニューヨーカーにこの質問をぶつけたら、高い確率で「ヤンキース」「ジャイアンツ」(年配の方は「ドジャース」と言うかもしれません)という名前が挙がってくるように思います。ボストンで聞けば、間違いなく「レッドソックス」が挙がるでしょう。ヤンキース対レッドソックスは、単なる野球の試合ではなく、都市のプライドを賭けた戦いなのです。
「スポーツが人生の一部になっている」点とともにもう1つ、日米のスポーツファンに大きな違いが見受けられます。それは、そのアイデンティティーの「表現の自由」においてです。
以前、こんなことがありました。松井秀喜選手がMVPに輝いた2009年のワールドシリーズで、ヤンキースが3勝2敗で優勝に王手をかけた第6戦が開催される日の午後のことでした(この試合で松井選手はシリーズタイ記録の1試合6打点の大活躍で優勝の立役者になりました)。
私がオフィスで仕事をしていると、廊下の向かいからガーデニング会社を経営するリン(50代の女性)がやってきて、私に話しかけてきたのです。
リン:「やあトモ、元気?ワールドシリーズ見た?」
私:「ちょっと最近忙しくて見てないんだ。それに僕はレッドソックスファンだから」
リン:「あなた、どうかしてるんじゃない?今、世界で最高の2チームが戦っているのよ!いくら仕事が忙しいからって、ワールドシリーズより重要な仕事が一体地球上のどこを探せばあるっていうわけ?そんな態度じゃ、あなたは本物のアメリカ人にはなれないわね。あなたはまだまだ日本人ね。ベースボールといえば、アメリカのスポーツよ。日本の野球だってアメリカから輸入したんでしょ。だから日本がアメリカと本気で戦ったって、勝てっこないのよ。本当のアメリカ人になりたかったら、ワールドシリーズを見なさい」
こう言い残すと、リンはウィンクして私のオフィスを去っていきました。リンは特に筋金入りのヤンキースファンではありません。こうした反応が米国でごく一般的な地元スポーツファンの反応だと思ってよいと思います。日本シリーズの日に仕事をしていて隣人から怒られた経験のある方がどれだけいるでしょうか?
リンとの会話を通じて、私は「自由」というものの解釈の仕方に日米で大きな差があることを痛感しました。そこには、自分が人生の一部だと思っている大切なものを、誰に制約されることもなく自由に追い求める強さがありました。
スポーツ観戦を通じて「自由」を守る
米国は「自由」と「正義」を教義にしているような国です。英国から自由を求めて独立したという建国の歴史が、その信仰を強めているように感じます。独立戦争の指導者パトリック・ヘンリーの「私に自由を与えよ、しからずんば死を与えよ(Give me liberty, or give me death)」の演説は日本でも有名ですし、全米50州の標語(各州がモットーを定めて自動車のナンバープレートなどに記載している)にも自由に関するものが多くあります。
そのため、アメリカ人は「自由=自分の好きなことを好きな時に行うこと」の価値を非常に大切にします。自由を享受するという行為を大切にすることで、命を懸けてそれを勝ち取った先人たちに敬意を払うのです。当然、スポーツを楽しむ自由もこれに含まれます。
こうした近代市民主義の原理の1つとしての「自由」は、本をただせばフランス革命で生み出された人権宣言により定式化されたものであり、それが市民革命を通じて西欧各国に広がっていったものです。欧米では、「自由」とは血を流した代償として得られたかけがいのない対価として認識されています。
一方、日本はどうでしょうか? スポーツ観戦を通じて自由の価値を守ろうという意識はあるでしょうか?
日本での「自由」は血を流して手に入れたものではありません。戦争に負け、「外圧」によって自由がもたらされた日本には、市民革命の“成功体験”がないのです。私もそうでしたが、「与えられた自由」を当たり前に享受する多くの日本人にとって、その「自由」と向き合い、その価値を自分なりに咀嚼する機会は多くはないでしょう。そして、こうした近代民主主義のもたらされたプロセスの違いが、結果的にスポーツ観戦の盛り上がりの違いにも大きく影響しているように思えるのです。
こんなことを書いてしまうと身も蓋もなかったかもしれません。でも、私は今の日本スポーツ界に潜在力を感じています。
日本は一昨年、GDP(国内総生産)で中国に抜かれ、「世界第2位の経済大国」の地位を明け渡しました。今後、社会の高齢化がさらに進み、人口も減っていくことが予想されています。戦後続けてきた右肩上がりの成長の中で形作られたライフスタイルや価値観は大転換を迫られています。
上がった給料でテレビを買い、車を買い、家を買う。古くなったらより新しく、より大きいものに買い替えるという購買行動を通じて豊かな生活を実感してきたわけですが、こうした物質的な充足から幸福を感じる価値観では、今後予想される低成長社会で実感するQOL(Quality Of Life)は昔ほど上がらないでしょう。
これからの日本にスポーツがもたらす可能性
物質的な充足や他者との比較で幸福を定義する価値観を転換させ、本当に自分が好きなことに時間とカネをかけることに意義を見つける。このような文化的・精神的な充足を目指す流れが今後より強くなっていくものと思われます。そして、そこにスポーツの可能性があると思います。
上司が会社にまだ残っていても、好きなスポーツを観戦しに出かけていいではないですか。「スポーツが人生の一部」と言える人を増やし、スポーツを通じて自由に思い思いの人生を謳歌できるようになれば、低成長社会にあっても自分なりの幸福を感じることができるはずです。
自由を手にするには、強さが必要です。成長から幸福度への価値観の転換を迫られる日本において、スポーツはその変化の旗手になれるはずです。
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