1. コラム

イチローを獲得したヤンキースの皮算用

このコラムは日経ビジネスオンライン「鈴木友也の米国スポーツビジネス最前線」にて掲載されたものです

 日本でも大きく報じられたと思いますが、イチロー選手が7月23日にシアトル・マリナーズからニューヨーク・ヤンキースに移籍しました。

 メジャーリーグ(MLB)では、毎年7月31日がトレード期日であるため、この時期は大きなトレードがまとまりやすいタイミングではあります。殿堂入りが確実視されている大ベテラン選手がニューヨークにやってくるとあって、地元のヤンキースファンも大歓迎の様子です。

 イチロー選手は今シーズンがマリナーズとの5年契約の最終年でした。今年の年俸は約1800万ドル(14億4000万円)と報じられていますが、今回のトレードでヤンキースはマイナー選手2人を差し出すだけでイチロー選手を手にできたわけですから、かなりお得な買い物をしたということになります。今季のイチロー選手の年俸は、その7/8をマリナーズが引き続き支払い、ヤンキースが負担するのは225万ドル(1億8000万円)に過ぎません。

 私はベースボール・オペレーションの専門家ではありませんので、移籍の戦力補強上の評価はその道のスペシャリストにお任せするとして、今回のコラムではイチロー選手の移籍がヤンキースの球団経営にどんなインパクトを及ぼすのかを考えてみようと思います。

「経済効果を狙った日本人選手獲得」はウソ

 大物日本人選手がMLB球団に移籍する際に必ず話題になるのが、「球団への経済効果はいくらか?」「球団は収入増大を狙って選手を獲得したのか?」という話です。

 ダルビッシュ有選手がテキサス・レンジャーズに移籍した時にも、こうした話題は少なからずありましたし、私も取材を受けました。しかし、選手獲得は純粋にチーム編成(戦力強化)上の決断であり、まず経済効果を主目的とした選手獲得というのはMLBではありません。

 例えば、松坂大輔選手がレッドソックスに移籍した際も、同様の議論はありました。曰く「レッドソックスは松坂選手獲得で一儲け企んでいるのではないか」というものです。しかし、レッドソックスの松坂選手獲得は純粋に編成上の判断です。これは球団幹部から直接聞いた話なので、間違いありません。

 それ以前に、「松坂に120億円を払えたのはなぜ?(上)」でも書いたように、そもそも松坂選手獲得によるアップサイドそのものがレッドソックスの球団経営には構造的に存在しませんでした。

 MLB球団の主な収入源には、(1)チケット販売(2)スポンサーシップ(3)メディア権利料(テレビ放映権・ラジオ放送権など)(4)グッズ・飲食販売──の4本柱があります。この4つの視点から考えてみればよく分かります。

 レッドソックスは松坂選手が移籍する前からチケットは完売状態が続いていましたし、多くの企業と1業種1社の独占スポンサー契約を結んでいました。つまり、(1)(2)では既に売り上げ増がほとんど期待できない状態だったわけです。

 また、国際放映権やグッズ収入はリーグの収入となるため、直接レッドソックスの懐を潤すわけではありません(最終的には全球団に均等分配される)。また、以前から球場は満員の状態が続いていたことから、松坂投手が入ったからといって、球場内でのグッズや飲食の購買が増える可能性は小さいわけです。つまり、(3)(4)でもアップサイドは限定的でした。

 今回の移籍劇でも、ヤンキースは純粋に編成上の判断でイチロー選手を獲得したはずです。もともと、ヤンキースは特定の選手に肩入れした営業活動を行わない球団として有名です。ヤンキースのユニフォームには選手名が入っていませんが、これは「選手の存在が球団を超えることはない」というヤンキースの球団哲学の現れです。ですから、ヤンキースが営業上の理由からイチロー選手を獲得することはないでしょう。

 しかし、イチロー選手獲得による副次的な収入増の可能性はあるのでしょうか? 松坂選手とレッドソックスの時のように、アップサイドは限定的なのでしょうか?

イチロー選手獲得の増収効果はあるか?

 選手加入による球団収入のアップサイドという意味では、意外かもしれませんがレッドソックスとヤンキースの最大の違いはチケット販売です。レッドソックスは前述のように2003年からチケット完売記録を更新していますが、ヤンキースは特に新スタジアムになった2009年以降はチケット販売で苦戦を強いられています。

グラフ:ニューヨーク・ヤンキースの観客動員数(1試合平均)・収容率の推移

出所:ESPN.comのデータから作成(2012年は8月2日現在の数値)

 「苦戦を強いられている」と言うとやや語弊があるかもしれません。ヤンキースの今シーズンの平均観客動員数は4万3129人。平均観客収容率は85.8%です(いずれも8月2日時点のもの)。これはMLB30球団中それぞれ3位と9位の数字です。他球団と比較した場合、悪い数字ではありません。

 しかし、増収可能性という意味では、座席に平均14.2%の空きがあるわけです。ヤンキースタジアムの座席数は約5万席ですから、平均7100席の空きがある計算になります。ここに“イチロー効果”がどれだけあるかということになります。

 ここからの前提は、ニューヨーク在住のスポーツファンとしての私の感覚値になりますが、イチロー選手の移籍を理由にヤンキースの試合を観に出かけた日本人の知り合いは結構多かったですが、アメリカ人の友人には皆無でした。

 ヤンキースファンは大物選手の移籍には慣れっこになっているので、恒例行事みたいなものなのかもしれません。そうした状況はあるにせよ、ここでは、在留邦人への呼び込み効果はあるが、それ以外はないと大胆に仮定してみましょう。

 外務省によると、2011年10月現在の米国在留者数は約38万8000人で、うち約5万7000人がニューヨーク都市圏に住んでいます。「ピンストライプのユニフォームを着たイチロー選手は今年で見納めかもしれない」ということで、仮にこのうち半分(=2万8500人)が年内に平均1回多くヤンキースタジアムに足を運ぶと仮定すると、1試合平均約900人の押し上げ効果が期待できる計算になります(イチロー選手が移籍した時点でのヤンキースの残りホーム試合数は31試合)。

 ヤンキースの平均チケット単価(2011年)は51.83ドルですから、この前提では今シーズン残りトータルで約148万ドル(約1億2000万円)の増収が期待できるということになります。しかし、これは4億ドルを超える球団収入があるヤンキースにとっては微々たる数字でしょう。

今シーズンの影響は限定的?

 まだ移籍からそれほど日が経っていませんので、参考情報にもならないかもしれませんが、イチロー選手獲得前後のヤンキースタジアムの観客動員数を比較してみたのが下グラフです。

グラフ:イチロー選手移籍前後のヤンキースの観客動員数

出所:ESPN.comのデータから作成。赤枠は週末、黒枠は対戦相手。

 動員は対戦相手や曜日、天気などの多くの要因に左右されるのですが、週末の人気チームとの対戦では4万8000人前後の集客がある一方で、不人気チームとの平日開催の試合では4万4000人前後の集客という波形はあまり変わっていません。少なくとも、はた目からも分かるような大きな“イチロー効果”は集客上確認できません。

 チケット販売以外の領域での増収可能性は、レッドソックスと大差はありません。既にシーズン終盤を迎えているので、ここから新たに協賛企業がつくとは考えづらいですし、国際放映権やグッズ収入はリーグの収入となるのは変わりません。

 シーズン終盤を移籍ということもあり、今シーズンにおけるイチロー選手移籍による増収効果はかなり限定的と言えそうです。

 ところで、同じアジア系選手という視点から、今年米プロバスケットボール協会(NBA)に彗星のごとく現れ、社会現象を引き起こしたNBA初の台湾系アメリカ人ジェレミー・リン選手とイチロー選手を並び立てる記事も見られます。

 折しも、リン選手がニューヨーク・ニックスからヒューストン・ロケッツへの移籍が決まった翌週にイチロー選手がヤンキースに移籍してきたことから、フォーブス誌などは「リン選手が去ったニューヨークのスポーツ市場にイチロー選手が到着」(Exit Jeremy Lin. Enter Ichiro Suzuki To New York City’s Sports Market)といった記事を書いています。

 今年頭の“リンサニティー(Linsanity)現象”(Lin選手と+「狂気」を表すInsanityを合わせた造語)はすさまじいものがありました。マンハッタンはリン選手のジャージを着た人であふれ、ニックスのチケットは完売。メディアもこぞって「Linsanity」「Lincredible」「Lintensity」といった造語でリン選手の活躍を伝え、社会現象になりました。4月には、タイム誌から「世界に最も影響力を与える100人」に選出されています。スポーツ界から選ばれたのは、サッカーアルゼンチン代表のメッシ選手ら5人だけでした。

NBAのリン選手にあってイチロー選手にないもの

 面白いのは、技量的なスポーツ選手の格としては、圧倒的にイチロー選手の方が上だということです。しかし、タイムズスクエアがイチロー選手のジャージを着た人であふれているというニュースはまだ耳にしません。つまり、ファンは競技(選手の技量)を見るためだけに応援するのではないのです。

 「マイノリティ出身の移民2世」「ハーバード出身の秀才が安定した生活を捨て夢に挑戦」「人種差別に屈せずチャンスを掴む」「謙虚な人柄」といった様々な軸が「人ごととは思えない何か」を作り出すのです。

 これは「代理応援」という考え方なのですが、ファンはチームや選手の存在を自分と重ね合わせて応援するのです。バスケが好きだから応援する人ももちろん存在しますが、そうでない人も大勢います。

 個人的に少し残念だったのは、移籍会見でイチロー選手が通訳を使っていたことです。通訳を使うのは野球に専念したいなど、イチロー選手なりの考え方があるのでしょうから、私がとやかく言う話ではないかもしれません。しかし、下手な英語でも自分の言葉で気持ちをファンに伝えてほしかった。そうすれば、より多くのファンとの間に「ひとごととは思えない」感情的な絆が生まれたはずです。

 世界中からあらゆる分野の勝負師が頂点を目指して集まるニューヨークは「アメリカにあってアメリカではない」などとよく言われます。ニューヨークは1つの国なのです。イチロー選手には、様々なバックグラウンドを持つ人が行き交うこの街の人の心をつかみ、リン選手以上の喝采をニューヨーカーから浴びる活躍をしてほしいと思います。

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