1. コラム

ヤンキースの田中選手獲得における誤解と真相

このコラムは日経ビジネスオンライン「鈴木友也の米国スポーツビジネス最前線」にて掲載されたものです

 ポスティング制度での移籍先を日本国民が固唾をのんで見守っていた楽天ゴールデンイーグルス田中将大選手がニューヨーク・ヤンキースと7年総額1億5500万ドル(約155億円。1ドル=100円にて概算。以下同)にて契約を結びました。もはや、このニュースを知らない日本人はいないでしょう。

 契約締結から約1週間が経ち、交渉経緯や球団の思惑、今後の展望などに関する情報がある程度出尽くした感があります。契約締結のタイミングが自分の出張と重なってしまったこともあり、ちょっと機を逸してしまった感もあって正直、この話題についてコラムを書こうかどうか迷っていたのですが、編集部からの期待もあってやはり触れないわけにもいかないと思い直しました(と、まあ年初のコラムが遅くなった言い訳です)。

 今回は、MLBビジネスやヤンキースという球団、ニューヨークという街を身近に感じる筆者が、ヤンキースの田中選手獲得における誤解と真相を解きほぐしてみようと思います。

誤解(1):田中選手獲得は「増収が目当て」

 大物日本人選手がMLB球団に移籍する際に必ず日本で話題になるのが、「球団が見込む経済効果はいくらか?」「球団は選手への投資を回収できるか?」といった話です。こういう視点で野球ビジネスを考えたり分析したりすること自体は面白いですし、スポーツの楽しみ方の1つとしてもちろんアリだと思います。

 松坂大輔選手がボストン・レッドソックスに移籍した際も、ダルビッシュ有選手がテキサス・レンジャーズに移籍した際も、イチロー選手がヤンキースに移籍した際もこうした話題は少なからずありましたし、私も取材を受けました。実際、私もこの日経ビジネスコラムにて「松坂に120億円を払えたのはなぜ?(上)」「イチローを獲得したヤンキースの皮算用~日本人選手の移籍を巡ってよくある誤解」などで、選手獲得の結果、球団経営に波及する増収効果を分析したりもしています。

 しかし、選手獲得は純粋にチーム編成(戦力強化)上の決断であり(野球界ではこれを「Baseball Decision」などと呼びます)、経済効果を主目的とした選手獲得というのはMLBではまずありません。また、GM(ゼネラル・マネージャー)が選手獲得による球団経営への投資対効果を個別に分析することもないでしょう。

 今回の田中選手移籍劇でも、オーナーから選手獲得で全権を委任されているヤンキースのブライアン・キャッシュマンGMの頭にあったのは「いかにワールドシリーズで優勝できるチームを予算内で作り上げられるか」の1点だけだったはずです。

 これは料理に例えると分かりやすいかもしれません。GMとは、レストランのオーナーから食材の調達を一切任せられる存在です(ちなみに、食材を使って料理を作るのは監督の役割)。GMは予算内で世界中から最高の“食材”を集め、監督が世界最高の“料理”を作り出すための前提環境を整えるのです。

 ですから、GMが常に頭に描くのは、お客さんが口にする料理の姿(=シーズンを戦い抜いて優勝するチームの姿)です。それは「こんな料理を創ったらお客さんは喜ぶだろうな、高いお金を払ってくれるだろうな」というマクロの発想であって、「今月は海外から最高のタマネギが手に入ったから、これでいくら儲かる」といったミクロの発想ではないのです。

ヤンキースの“料理の予算”

 具体的には、このオフの選手補強でキャッシュマンGMの頭にあった数字は「1億8900万ドル」(189億円)です。この金額は、課徴金制度の基準額です。MLBでは、戦力均衡を促進するため、年俸総額がこの基準額を超えた球団には、超過額に対してある税率(違反回数に応じて17.5~50%で変動)が乗じられた額が「課徴金」(いわゆる「ぜいたく税」)として徴収されます。

表:ぜいたく税の税率(2014~2016年)

 ヤンキースは、課徴金制度が導入された2003年から11年連続でぜいたく税を支払っている違反の常連なのですが、さすがに50%もの税率をかけられた課徴金は球団経営への負担も軽くありません。実際、2013年シーズンに年俸総額が基準値を超えたのはヤンキースとドジャースの2球団だけでした。

 実は、昨年の年俸総額だけを見ると、ドジャースの2億4300万ドル(243億円)に比べヤンキースは2億3400万ドル(234億円)と、ドジャースの方が高かったのです。しかし、初犯のドジャースの税率は17.5%だったのに対し、11年連続のヤンキースは50%だったため、結果として支払うぜいたく税の金額はそれぞれ約1140万ドル(11億4000万円)、2800万ドル(28億円)という大差の逆転現象が起こっていました(参考までに、2013年の基準額は1億7800万ドル)。

 そのため、ヤンキースでは今オフに年俸総額をこの基準値までに抑えることが目標として掲げられていました。いったん違反なしのシーズンを経れば、次に違反した場合の税率が17.5%に戻るからです。

 ヤンキースは数年かけてこの計画を進めていたのですが、田中選手との交渉で予想以上の獲得資金が必要になったため、この計画を破棄せざるを得なくなりました(GMは田中選手との交渉中に「1億8900万ドルを超えること」についてオーナーに承認を取っているはずです)。逆に言えば、田中選手はヤンキースの予算計画を変更してでも欲しかった選手だったということでしょう。

 話を元に戻しましょう。GMの頭の中に「田中選手に年俸2000万ドル以上を支払っても投資を回収できるか?」という、食材ごとに投資回収を検討する発想はあまりありません。あるのは、(途中で変わりはしましたが)「1億8900万ドルという年俸総額であれば球団経営として収支をバランスできる」という予算計画に基づき、「田中選手という“食材”を“料理の予算内”で確保できるかどうか」です。

 ただし、営業目的の選手獲得はMLBではまずないと言いましたが、誤解を避けるために補足すると、ジャパンマネーの獲得も含め、契約した選手をあらゆる形で営業上活用する取り組みは当然行われます。田中選手の移籍が正式に決まったその日のうちに、ヤンキースでCRM(顧客情報管理)を担当している知人から、私のところにも「日本人を対象にした新しいチケット販売キャンペーンを考えないといけないな。ちょっと知恵を貸してくれ」というメールが来たくらいです。

誤解(2):田中選手獲得は「お金の力がすべて」

 ヤンキースと聞けば、誰でも「MLBで最も資金力豊富な球団」というイメージを持っていると思います。それは間違いではありません。ただ、その強烈なイメージゆえに、選手獲得競争では「交渉をマネーゲームに持ち込んで、すべてをお金で解決する球団」という印象を持っている人も少なくないかもしれません。しかし、それはステレオタイプで一面的な見方に過ぎません。

 今回の田中選手争奪戦には、ヤンキースのほかにシカゴ・カブス、シカゴ・ホワイトソックス、ロサンゼルス・ドジャース、アリゾナ・ダイヤモンドバックス、ヒューストン・アストロズの合計6球団が参戦したと言われています。田中選手の代理人ケーシー・クロース氏が交渉状況を完全にシャットアウトしていたため、他球団の提示はすべて憶測の域を出るものではありませんが、その中でも最初に最高額を提示していたのがヤンキースだと言われています。

 これだけ聞くと、いかにも金満球団らしいヤンキースの戦い方だと思うかもしれません。ところが、関係者に状況を聞いたところ、「マネーゲームになったらドジャースには勝てないだろう」という意外な答えが返ってきてびっくりしました。

 実は、現在のMLBでは、ドジャースはヤンキースをしのぐほどの金持ち球団なのです。ご記憶の方もいるかもしれませんが、ドジャースはオーナーの離婚劇の泥沼の影響で2011年に経営破たんしています(詳細は「ドジャース破綻の舞台裏(上)~球団のカネで離婚費用を払おうとしたオーナー」参照)。ロサンゼルスという大きな市場にフランチャイズを置いている環境により、球団の事業価値では昔から上位にランキングされていたものの、「カネの力にモノを言わせてでもトップ選手を取って勝ちにこだわる」という哲学を持った球団ではありませんでした。

 状況が一変したのは、NBAの元スター選手、“マジック”・ジョンソン氏らが率いる投資家グループ「グッゲンハイム・ベースボール・マネジメント」(Guggenheim Baseball Management)が2012年に空前の21億5000万ドル(2150億円)で球団を買収してからです。金額としては、MLBで過去最高だった2009年のシカゴ・カブスの売却額8億4500万ドルの倍以上の金額でした。

 新オーナーになるや、ドジャースは金に糸目をつけずに選手獲得を開始します。昨年からは1億ドル(100億円)以上を投じたスタジアム改修プロジェクトも始動しています。昨年、クライアントとドジャースを訪問した際、球団職員が「オーナーが変わるとここまで金遣いが変わるのかとびっくりした」と言っていたほどです。

 つまり、今やドジャースはヤンキースをも上回るほどの金満球団なのです。では、マネーのほかに何がヤンキースの田中選手獲得を決めた要因だったのでしょうか?

マネーゲームをパラダイムシフトさせる“伝家の宝刀”

 New York Timesでも報道されているように、ヤンキースは1月8日にロサンゼルスで田中選手と初めて会談を持ったのですが、そこでヤンキースは球団の紹介ビデオを流しています。ビデオでは、ヤンキースという米球界の盟主を自認する球団が背負っている栄光と重責、それを感じながらプレーすることの特別さが語られていたそうです。

 逆説的かもしれませんが、ヤンキースは球団紹介で契約や待遇などの方針(お金の話)について改めて説明する必要がありません。それは、資金力豊富なことが周知の事実だからではなく、実はそれが彼らの“売り”ではないからです。

 彼らの売りは、比類なき伝統と実績です。それは、ほかのMLB球団のビジネス手法との違いを見ても明らかです。

 ヤンキースの球団ビジネスの中核となるのが、ベーブ・ルースやルー・ゲーリック、ジョー・ディマジオ、ミッキー・マントルらMLB史上に名を刻む多くのスター選手を輩出し、ワールドシリーズ27回制覇という比類なきブランドです。ファンとの主要なブランド接点となる本拠地ヤンキースタジアムは、伝説の選手に会える「Living Museum(生きる博物館)」をテーマとして建設されており、余分なものを一切削ぎ落して野球だけを見せるための舞台装置として設計されています。

 そのため、奇をてらった仕掛けや、家族をもてなすアトラクションなどはほとんどありません。その代わり、ファンの観戦体験を充実させ、顧客満足度を高めることに徹底的にこだわっています。これは、近年のスタジアム建設の流れに逆行するものです。ヤンキースはそれを意図的に行っています。

 最近の流行は、スタジアムをテーマパークのように設計し、試合観戦以外のアトラクション(レストラン、バー・ラウンジ、カフェ、ゲームセンター、子供の遊び場など)をふんだんに盛り込むスタイルです(だから、施設の名前も「○×パーク」というものが増えています)。なぜなら、多くの球団では競技を見せるだけでは売りとして不十分で(観客を惹きつけるだけの実績や伝統がない)、ビジネスとして成立しないからです。

 この球団経営手法のポジショニングの違いを図示したものが以下です。

 ヤンキースが田中選手に見せたビデオは、ヤンキースがフィールド内外でほかのMLB球団とは一線を画す存在であることを説明するためのものだったのでしょう。歴代のスター選手たちと同じユニフォームに袖を通すことは、伝説の舞台に立つことであり、カネでは買えない体験です。イチロー選手もそれを求めて移籍してきました。他球団が真似できないがゆえに、このプレゼンテーションにはマネーゲームをパラダイムシフトさせる力があったはずです。

 田中選手のような超一流選手を獲得するのに、「お金の力」は必要条件です。残念ながら貧乏球団は交渉のスタートラインにさえ立つことはできません。しかし、果たしてそれだけがすべてだったのか。

 真実は田中選手本人にしか分かりませんが、私は「お金以外の力」も田中選手がヤンキースに行くと決断した際の小さくない要因になったのではないかと感じます。そして、ピンストライプのユニフォームに袖を通し、ヤンキースタジアムのマウンドに上がった時、田中選手自身もそれを肌で感じることになるでしょう。

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