このコラムは日経ビジネスオンライン「鈴木友也の米国スポーツビジネス最前線」にて掲載されたものです
今日は、スポーツ観戦チケットの値付けの話をしようと思います。突然ですが、皆さんは「ダイナミックプライシング」(Dynamic Pricing)という言葉を聞いたことはありますか? レベニューマネジメント(顧客の購入意欲に応じて商品・サービスの価格と割当量を変えることで収益の最大化を図る)の考え方をスポーツ界に応用した値付け手法です。
これまで、スポーツ観戦チケットの値付けはシーズン開始前に行われるのが普通でした。例えば、野球なら4月から10月頃まで開催されるシーズンに備えて、開幕前にホームゲーム全試合(MLBなら81試合)の値段を決めていました。多くは、座る座席の場所(席種)に応じて価格帯を変えて値付けを行います。フィールドに近い席ほど値段が高くなり、この値付けが全試合一律に適用されることになります。
恐らく、これが一般的にイメージされるチケットの値付け方法でしょう。しかし、半年以上も前に試合の「本当の価値」を正確に予測するのは簡単ではありません。いや、事実上不可能と言ってもいいくらいです。なぜなら、「本当の価値」を決める要素は多岐にわたる上、事前予測が困難なものが多いからです。
「自チームの成績」や「対戦相手の成績」は、試合の価値を決める代表的な要素の1つです。消化試合なのか、優勝を決める試合なのかで、その試合の持つ重みは大きく異なってしまいます。でも、これはシーズンが深まるまで誰にも予想できません。また、野球なら、「誰が先発するのか」(エースが投げるのかどうか)、「天気はどうなのか」(暖かいのか、寒いのか)、「何か大きな記録がかかっているのか」(通算200勝や2000本安打など)などによって、チケット購入者が実際に感じる価値は変動します。
つまり、「価格は一律」がこれまでの業界スタンダードだったのに対して、「その価値は変動する」のが現実に起こっていたことでした。要は、価値が変動するものをずっと同じ値段で売っていたわけです。いや、同じ値段で売らざるを得なかった、と言った方が正確かもしれません。
理由は2つあります。第1に、試合の持つ「本当の価値」を測定することが難しいため。第2に、仮に測定できたとしても、それを実際のチケット価格に反映させる仕組みがないため。しかし、統計学のビジネスへの応用が進み、ITが進歩した現在、この2つの「不可能」が「可能」になりました。今では、チケットの「時価」を測定し、それをリアルタイムで売り値に反映する仕組みが可能になりました。これが、「ダイナミックプライシング」です。
今回のコラムでは、米スポーツ界のチケット市場に革命を起こした「ダイナミックプライシング」について、その基本的な考え方や期待効果、課題などについて解説しようと思います。
なお、あらかじめ告白しておきますと、私は後述するQcue社の日本市場進出を今夏よりサポートしており、ダイナミックプライシングについて多くの情報を知り得る立場にある一方、このコラムを営業的に利用し得る立場にもあります。客観的な記述に努めるつもりですが、その点をお含みいただきご覧いただければと思います。また、当コラムの内容は私の個人的な見解であり、Qcue社の公式見解ではないことも併せて明記しておきます。
スポーツとは縁のない専門家集団
「Qcue」(「キューキュー」と読みます)という変わった名前の会社が、テキサス州オースティンに設立されたのは、2007年のことでした。CEOのバリー・カーンは、大学で工学物理学を専攻し、その後、経済学の修士号と博士号を取得した秀才です。
Qcueは、2009年にサンフランシスコ・ジャイアンツを最初のクライアントとして迎えると、その後あっという間に米スポーツ界を席巻し、ダイナミックプライシングのサービス提供者として独占的な地位を築き上げました。今や、MLBの過半数の球団が顧客に名を連ねているほか、NBA(米バスケットボール協会)やNFL(米プロフットボールリーグ)、NHL(米アイスホッケーリーグ)などの他の米メジャースポーツ球団、バルセロナやASローマなどの欧サッカークラブ、豪フットボールリーグなど、世界中にそのビジネスを拡大しています。
Qcueのユニークなところは、CEOのバリーを含め、スポーツビジネス界での経歴を持った人間がほとんどおらず、純粋な技術者・専門家集団である点です。過去の経歴的には、金融でデリバティブ(金融派生商品)取引をやっていたとか、エネルギー業界で先物取引をやっていたとか、そういった金融工学、計量経済学などのエキスパートたちが集まった企業です。
彼らはスポーツエンターテインメント業界に特化し、統計学を駆使してアルゴリズム(計算モデル)を構築し、観戦チケットに対する需要を高確率で予測します。ここで言う「需要予測」が、先ほどの試合の持つ「本当の価値」を算出するベースになります。
簡単に言えば、顧客(チケット購入者)の価格感度に影響を与える要素を調べ、それぞれの重みづけを検討しながら、顧客満足度と収益性を最大化する価格ポイントを算出するのです。当然、球団により市場環境や顧客特性などが異なるため、構築するアルゴリズムも球団ごとに独自にカスタマイズすることになります。
買い手が「懐が痛む」と感じる価格設定にすればチケットは売れなくなりますから、無理な値上げはアルゴリズムに排除され、実施されることはありません。ですから、2000円のチケットを4000円で売りつける、という話ではなく、実際は数十円単位で小幅に変動させる形が大半です。
技術的には、リアルタイムでの価格変更が可能ですが、後述するように変更可否やそのタイミングは最終的にすべて球団の手に委ねられます。経験的には、チケット価格を変動させる回数が多ければ多いほど(=「価格」と「本当の価値」をより柔軟に調整すればするほど)、チケット収入が増加する傾向が分かっています。MLB球団の中には、1シーズンに延べ数十万回価格を変えるところもあります。
ダイナミックプライシングが生まれた背景
ダイナミックプライシングの普及により、今や米スポーツ界ではチケットの値付けは「時価」が当たり前の世界になりつつあります。しかし、世の中を広く見渡してみると、ホテルや航空会社、レンタカー、ガソリンスタンド、卑近なところでは八百屋で売られる果物や野菜など、既に多くの業界が需給バランスにより価格を変える手法を取り入れています。その意味では、スポーツ界は価格政策のリーダー(主導者)ではなく、むしろフォロワー(追随者)なのです。
では、米国スポーツ界ではなぜ最近になって急にダイナミックプライシングが普及したのでしょうか? 実は、これは再販市場の成熟と深く関係します。再販市場では、主にシーズンチケット保有者が行けなくなった試合を他人に販売したり、転売目的で利益を上げるブローカーがチケットを販売したりします。オークションも転売の一形態と考えられます。
米国では、特にオンラインでのチケット販売が一般的になったここ10年余りで、チケット転売サイトの存在感は非常に大きなものになりました。ネットを通じて大量のチケットを手軽に転売することができるようになったためです。
転売サイトのビジネスモデルはシンプルです。例えば、米エンターテインメント業界最大手のStubHub(スタブ・ハブ)は、基本的に「売り手を買い手の自由市場」を標榜しており、同社が価格設定に口出しすることはありません。あくまで売り手と買い手が合意した価格でチケットが転売され、StubHubは売り手から15%、買い手から10%の手数料を取るという仕組みです。
しかし、チケット転売で自由市場を標榜されると、興行主(スポーツ組織)にとって困った事態が起こりました。価格体系の破壊です。
顧客と球団に価格硬直性を気付かせた再販市場
スポーツ組織(球団)は、一定の整合性に基づいてチケットの価格体系を決定しています。例えば、フィールドに近い席の方が高いとか、シーズン席として年間購入してくれた顧客に最大の割引率を適用するなどです。
しかし、再販市場がスポーツ組織の定義した価格体系に拘束される理由はありません。そして、同じ試合の同じ席のチケットなら、ファンも安い方法を選択するのは当然です。その結果、何が起きたか。
例えば、ニューヨーク・ヤンキースの外野席をシーズン席として購入していたファンがいたとします。彼は、シーズン席購入者の特典として、通常25ドルの席を20ドルの割引価格で手に入れていました。でも、年間81試合全てを観に行くことは簡単ではありません。
次の火曜日のマリナーズ戦は、どうしても仕事の都合で行けそうにありません。天気も悪そうです。こんな平日の不人気試合は額面の25ドルでは買い手がつきません。結局、「タダよりはまし」とStubHubに10ドルで売りに出しました。
これを買い手から見ると、ヤンキースの公式サイトでは25ドルで売られている同じチケットが、StubHubでは10ドルで買えることになります。こうなると、もうファンは球団公式サイトからチケットを買わなくなってしまうでしょう。
これはチケットが額面割れして売られてしまうケースですが、逆の場合もあります。
セントルイス・カージナルスは、9月の休日に予定されていたシンシナティ・レッズ戦を最も安い価格帯で値付けしていました。レッズは同地区の球団ではあるものの、いつも弱くてシーズン後半には「死に体」になっているからです。9月の休日は経験的にチケットの売りにくい日でもありました。
しかし、2010年は事情が違いました。カージナルスはレッズと地区優勝争いを繰り広げていたのです。チケットはあっという間に完売し、再販市場において高値で取り引きされていました。球団から見れば、「適切」に価格付けしていれば本来得られたはずの収益を再販業者に横取りされた気分です。
以上はいずれも実話です。いずれのケースにも共通しているのは、適切な値付けができないために、球団が損をしているという点です。言い方を変えれば、再販市場の存在が、スポーツ組織の価格硬直性の弊害を気づかせてくれたのです。
ダイナミックプライシングのよくある誤解と真実
「このままではまずい」と考えた球団を救ったのが、ダイナミックプライシングでした。球団自らが、試合の持つ「本当の価値」を反映した値付けをしていれば、再販市場に顧客を奪われるリスクを軽減できるからです。つまり、ダイナミックプライシングは試合の「本当の価値」を巡る球団と再販業者の顧客争奪戦の帰結なのです。
しかし、ダイナミックプライシングと再販市場では、そのメカニズムにいくつかの本質的な違いがあります。ここでは、ダイナミックプライシングに関してよくある誤解を解説する形で、その違いを整理してみましょう。
誤解(1):ダイナミックプライシングでは株式市場と同様にチケット価格が乱高下する
再販市場では、チケット価格は時に乱高下しますが、ダイナミックプライシングではそうはなりません。大きな違いは、誰が価格決定権を持つかです。
再販市場では、売り手が価格を決め、買い手と合意した価格で売買が成立します。買い手が付かなければ値下げせざるを得ず、興行主の意向に関わらず価格が上下する可能性があります。
しかし、ダイナミックプライシングでは、最適化された価格が球団(=興行主)の承認なく販売ルートに乗ることはありません。すべての価格変更は、事前に球団に告知され、完全に球団のコントロール下に置かれます(興行主から承認されない不本意な価格変更は実施されない)。
誤解(2):ダイナミックプライシングは、再販市場が成熟しないと機能しない
前述のように、再販市場の存在は、結果的にスポーツ組織の価格硬直性の弊害を気づかせてくれることになりました。しかし、再販市場が成熟していることが、ダイナミックプライシングが機能する前提条件ではありません。
そもそも、価値が変動する「試合」という売り物を均一価格で売る(売り物の「価格」と「価値」にミスマッチがある)という商習慣自体に無理があったわけです。それが、ダイナミックプライシングが機能する本質的な理由です。再販市場は、その硬直的な商習慣の弊害を顧客と興行主に教えてくれた存在です。
誤解(3):ダイナミックプライシングは、人気のある球団(試合)にしか効果がない
価格最適化による増収効果に限って言えば、確かに人気のある球団や試合の方が、その効果が高いのは事実です(ただ、たとえ不人気球団であったとしても一定の増収効果は認められる)。でも、増収が期待効果の全てではありません。実際、米国スポーツ界も当初はこの誤解に惑わされていました。それは、Qcueの最初の顧客(2009年)がサンフランシスコ・ジャイアンツだけだったことが物語っています。
今シーズンの優勝で、過去5年間で3度目の栄冠を手にしたジャイアンツは、MLBでも屈指の人気チームです。今季の1試合当たりの平均観客動員数4万1588人で、平均観客収容率にすると99.2%になります。つまり、ほぼ全試合が完売という状況です。
こうした人気チームであれば、ダイナミックプライシングの導入効果は比較的分かりやすいのです。その人気をチケット価格に転嫁すればよいわけですから。しかし、ジャイアンツのような人気球団はMLBでもそれほど多くはありません。
今季、観客収容率で90%を超えたのは、ジャイアンツの他、カージナルス、レッドソックスの3球団のみです。80%を超えたのは8球団に過ぎません。逆に、半数以上の16球団は平均観客収容率が70%未満です。つまり、多くの球団はチケット完売には程遠い状況にあります。
でも、ダイナミックプライシングを採用するMLB球団はその後急増し、前述したように現在では過半数のMLB球団がQcueの顧客になっています。では、不人気球団がダイナミックプライシングを導入するメリットは何なのでしょうか?
それは、例えば正確な需要予測に基づく増収以外の面での効果です。正確な入場者数が予測できれば、運営スタッフや警備員など人件費を削減することが可能です。想定顧客数に応じて飲食のオーダー数などの調整も可能になるでしょう。Qcueの戦略に関する部分なので、これ以上は記述できないのですが、増収以外に多くのメリットを提示することができるのです。
ダイナミックプライシングの課題
ここまで、ダイナミックプライシングの仕組みや期待効果を解説してきました。逆に、導入における課題や問題点はないのでしょうか?
よく指摘されるのが、明確な価格体系がなくなるため、価格が変動した際にその理由が分かりづらい点です。最適化された価格は、アルゴリズムによって自動的に計算されますが、その論理はブラックスボックスになっていて買い手からは見えません(サービス提供者にとっては、ここが企業の付加価値の源泉であり、企業秘密で絶対に公開されない部分です)。
「Business of Baseball」によれば、2011年シーズンにダイナミックプライシングを導入していたMLB球団では、全体平均でチケット価格が1.55ドル(約155円)増加しました。しかし、これはあくまで平均値で、値上げの平均値が3.27ドル(約327円)であるのに対し、値下げの平均は13.63ドル(約1363円)です。
今まで価格が変動するものに均一価格をつけていたわけですから、価値に合わせて価格を調整すれば「得する」お客様と「損する」お客様が出てしまうのは仕方ありません。しかし、お客様にこの全体像はなかなか理解しづらいため、「なぜ今まで1000円だった席が1100円になるんだ?!」とおしかりを受ける可能性があります。
別の問題点は、球団とファンとの結びつきを価格に置き換えてしまうため、ファンとの関係を毀損し、長期的にファンの忠誠度を下げる恐れがある点です。
従来まで、チケットを購入するという行為には博打的な要素があったわけです。つまり、買ったチケットが「当たる」(試合が面白い)か、「当たらない」(試合がつまらない)か分からない状況が、興奮度を倍増させるという意見です。
しかし、価格と価値をすり合わせて「フェアバリュー」にしてしまうと、当たりそうなチケットは高く、外れそうなチケットは安くなります。そうなると、「結果の不確実性を買う」というスポーツの醍醐味が一部損なわれてしまうというわけです。
日本のスポーツ界に価格革新は起こるか?
日本でダイナミックプライシングを導入しているスポーツ球団は、私の知る限りまだありません。対戦相手や試合日(平日なのか休日なのか)などに応じてあらかじめ「ゴールド」「シルバー」「バリュー」といった形で価格帯を複数用意しておく「バリアブル・プライシング」(Variable Pricing)を導入する球団が散見される程度です。
冒頭で述べたように、私は今夏からQcueの依頼で彼らの日本進出のお手伝いをしています。これまで、サービス導入の実現可能性を見極めるために2度日本に出張しました。
次回のコラムでは、日本市場におけるダイナミックプライシング導入への手応えや、今後導入を見据えた際に感じるハードル、日本市場の特性を鑑みて配慮しなければならない点などについて解説しようと思います。
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